2018年12月15日土曜日

だってここは、わたしたち二人の部屋だから。




(0)とある服についての覚書
数日前まで(正確に何日前かは思い出せないが)気に入って着ていたはずの服は、判然とした理由もないままに、身体から立ち去ってしまった。予兆を感じさせるような気配は一切なかった。気配なく立ち去っていくから、言い訳する余地も術もなく、その関係は思い切りが悪いままに破綻してしまった。一方でいまのわたしは、メルカリで買ったジルサンダーのシャツを気に入って着ている。大切そうに、撫でるようにして、アイロンを掛けている。
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(1)見通しの悪い二人の関係
柱や梁、窓や戸は、移動するわたしに対して反対方向に移動する。他方で、服は移動するわたしに対して同方向に移動する(前者が地に足を着けているのに対し、後者は身体に場を持つ、ということはここに宣言するまでもなく、当然のことであるが)。いま、同方向に移動する、服とわたしの運動は、せいぜい鏡を通してでしか認識することができない。服と身体はそういった張りぼてのような関係であり、見え得る断片を慎重につなぎ合わせる行為にこそ、そのイメージを認識する手がかりがあるように思われる。
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(2)幽霊的な服
ところで、誰かが「古着は他人の怨念のようなものを感じて、着られない。」と言っていた。だとすれば、メルカリはおばけ屋敷といえるかもしれない。身体に場を欲し、それが満たされている服が[現在の]服であるとすれば、その場を失った服は[過去の]服であり、幽霊(revenant)的存在であるといえるだろう。
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(3) 服は再来するのか。
わたしが服と密接ながらも軽薄な関係をもち、それが反復されていくことは、ひとつの孤独な体験である。服とは単なるイメージではない。しかし、イメージともいえる。あの頃着ていた服を幾度ここに再現しようと試みても、そのたびに消え、逃れていく掴みのようのないイメージは、二度と現れることがない(保存された、過去の写真や映像からそれを想起することは可能だとしても)。しかし、仮にそのような事象、つまり過去の服が再来する(reoccurrence)ことを期待したとき、それ(ら)は、どのような振る舞いをするのか。わたしと服の新たな関係の可能性そのものが生産される非公共的な場(部屋)のために、この問いは立てられる。


以上の、TOKYO FASHION FILMによるアーカイブ映像と当日配布したテキストをご覧いただいた後、以下のテキストを読んでいただければ、と思います。

 作者解題はなるべく避けたいので、空間の諸要素が観客およびその他のモノに与える動向を観察することにします。

 まず、会場における「風」について。風は、風自体が揺らぐのではなく、多様な関係においてその運動が前景化されるのであって、その強度は環境によって様々である。今回の会場において、その風が一つの演出要素としてあったことは明らかです。構成は、第1部(14時~)、2部(16時~)、3部(18時~)として、昼///の様々な時間によって適宜照明が扱われ、観客はどれか1つの時間帯を選択し、鑑賞を行うことになる。第1部は緩やかに時間が過ぎながらも、冬の気候のため風は最も強い時間帯です。また、この日の日没は16時28分。ショーはおおよそ15分ほどの尺であり、第2部はちょうど太陽光が著しく色変化する時間帯です。そして、第3部は日が暮れて風は静まり、首都高速中央環状線がゆるやかにカーブを描いて光を照らしているのに対し、荒川沿いの街灯は収まりの良い直線上に光を発していて、その光景がぼんやりと浮かぶ時間帯でした。特別、複数部の鑑賞を禁止していたわけではありませんが、それを希望される観客は現れませんでした。

 さて、とある一人の観客から会場空間における「風」に関してコメントをいただきました。以下、転載。『これはショーを見た後で読んだのですが、ブックレットの文章の(1)に「柱や梁、窓や戸は、移動するわたしに対して反対方向に移動する。他方で、服は移動するわたしに対して同方向に移動する。」という面白い文がありました。ここでいう「移動」(と同方向、反対方向という軸)にとって、風はどういうことになるのだろう、と思いました(...) (1)に服と身体を「張りぼて」の関係であると認識しているように読みましたが、それにたいして断片を「つなぎ合わせる」であるとか「手がかり」というような言葉が使われている点が、服にあった、はかなげな切実さと響き合っているように思いました。会場もあってか「風化」という言葉を思い出したりもしました。』 会場には、明け透けなH鋼の柱や梁があり、ランウェイ擦れ擦れに設けられ、開口があけられたフェルトのパーテーションには、重力や風に抗うことのできなかった結果としての物質感があらわになっている。

 次に、会場について。複雑な要素が乱雑に配置され、構成されている会場ですが、主にここでは観客が会場に入り、席に着くまでの動線について記したいと思います。会場には、2つの階段がありました。地上階から2階へ上がる、観客にとっての初めての階段は、2段目が外れています。次に登ることになる急勾配の階段は、蹴上が300mmほどで、踏面も150mmほどと狭く、観客がショーを観覧するために前提とする運動はあらかじめ規定されています。ショーを観るためには全員が必ずそれらの階段を登る必要があり、その体験、方法、前提が鑑賞の上では非常に重要な契機となっていたようです。(山の頂上に行くには、山道を登る必要があって、帰るためには下らないといけない。)

 次に、ルックブックについて。ルックブック は、1つめの階段を登ってすぐの入り口で配布されました。ルックブックで使用された写真はここでは棚上げするとして、その装丁については敢えて記述する必要があります。ルックブックは会場のフェルト部屋を吊るすものと、同じロープを使って綴じられています。これはつまり、以上に記した階段から会場フロアへの動線の観察から推測するに、それらの蝶番的な役割であったと考えられます。

 次に、照明について。照明はあえて最小限の演出効果とし、高演色のLEDパーライトが使用されました。色温度5600K、平均演色評価数Ra97うっすらと白く塗られた服も、手でブリコラージュ的に縫い付けられた縫い目も、寒空に立つモデルの鳥肌も、すべての肌理に平等に優しく添えられる光でした。

 次に、モデルの運動について。モデルはすり足で並進運動を行います。対してフィナーレではスピードをあげ、胴体が上下する。(ショー映像15:30ごろで確認できます。) これは、モデルと服が風にどのような抵抗をするのか、はたまたしないのか、といったことを考えているのかもしれません。並進運動をするモデルは、床に敷かれたシートに対してすり足を行い、その運動には摩擦によってささやかな音が付随します。対してフィナーレにおける運歩は挙動が激しいにも関わらず、足元の音は雲散★1する。うすっぺらなシートが、存在として立ち現れる瞬間であり、空間におけるすべてのモノが動きだす気配が感じられます。

 最後に、再来について。今回のファッションショーではモデルが二度歩くということが積極的に採用されていました。一度逃したら再び見ることが許可されない典型的なファッションショーに対して、異なる姿勢があります。二度見ることで、その印象(イメージ)は塗り替えられる。ファッションは特にそうです。
 映像作家であるアピチャッポン・ウィーラセタクンが、とあるインタビューで「時間や場所を超えて、自分自身の意識が別のところにトラベルしたとき、それは自己なのか魂なのか。」に関心を持っている、ということを言っていました。“自分自身の意識が別のところにトラベルする”ためには、自らの過去の記憶を、いまここでの体験や現象と同定する必要があります。意図的に選択されたルックが、再び現れることで、鑑賞体験の過程にも個々の記憶が呼び覚まされる。


 会場空間では主体と客体がめまぐるしく変化し、存在としてフラットに扱われる。服が持つ肌理、身体との関係は、風によって前景化され、また、フェルトの部屋の窓や戸によって背景化された。前景化と背景化、客体と主体、同方向と反対方向、過去と今、といった二項が対立し、因果律が整理される一連の行いによって、観客までもその二項に包括させられるような演出でした。

 最後に、ヴォルター・ベンヤミンの一節を引用し、今年度の繊維研究会の活動を終えることにします。

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過去の真のイメージはさっと掠め過ぎてゆく。過去は、それが認識可能となる刹那に一瞬ひらめきもう二度と立ち現れはしない、そうしたイメージとしてしか確保することができない(...)一度逃したらもう二度と取り戻すことのできない過去のイメージとは、自分こそそれを捉えるべき者であることを認識しなかったあらゆる現在とともに、そのつど消え去ろうとしているイメージなのだ。
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★1 うん-さん【雲散】 [](スル)風に雲が散るように、すっかり消えてなくなること。
★2 『ベンヤミン・コレクション 近代の意味』 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫

繊維研究会 渡辺翔太